西都市下三財川原田地区の広々とした田畑の中、寂しくも力強く建つ【川原田六地蔵塔】を訪ねて参りました。
この塔は、永正7(1510)年に起きた「綾の乱」にて自刃した長倉若狭守祐正らを供養するために建てられたものです。
西都市下三財は、都於郡城の下に広がる地域で、すぐそばには三財川が流れています。都於郡城11代目城主・伊東義益が参篭した岩崎稲荷(下三財神社)があるのもこの地域です。
綾の乱とは
綾の乱とは、永正7(1510)年に都於郡城7代目城主・伊東尹祐(ただすけ)の女性問題をきっかけに引き起こされた跡継ぎ絡みの騒乱です。
都於郡城7代目城主・伊東尹祐は正室に阿蘇大宮司惟乗の娘を迎えており、彼女との間には4人の子がいました。しかし、4人とも全員女の子。伊東家の跡継ぎにはなりえません。
ところが尹祐が37歳のとき、側室に迎えていた桐壺(中村氏の娘)との間に念願の男の子が生まれました。尹祐はたいそう喜び、祝宴まで開き、生まれた男の子を跡継ぎとすることに決定しました。
しかしその5年後、尹祐は家臣である福永祐炳(すけあき)の娘の美貌にメロメロになってしまい、重臣らの強い反対を押し切って彼女を側室に迎え入れます。福永氏の娘は、その時すでに垂水又六の正室であったところを離縁させられたのです。

略奪婚…!
そして永正7(1510)年、福永氏の娘が懐妊します。すると尹祐は、「腹の子が男の子であれば桐壺との間に生まれていた男の子を廃嫡しよう」と企てます。
この計画に大反対したのが2人の家老・長倉若狭守祐正(ながくらわかさのかみすけまさ)と垂水但馬守(たるみずたじまのかみ)です。尹祐を何度も何度もしつこく説得しようとします。

若様のいけない行為を諫めるとは、さすがは家老。伊達に年を重ねていませんね。
時を同じくして、綾城の城主である長倉若狭守祐正を陥れて「綾城を我が手中に収めん」と狙う稲津越前守(いなづえちぜんのかみ)という重臣がいました。そんな彼が事実を歪曲した情報を上に伝え、伊東家は混乱状態になりました。
長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両家老は、綾城に1か月に及び籠城し抗議し続けました。しかし、ついに2人は追い詰められて自刃し、この騒乱に終止符が打たれました。

こんなに悲しい終わり方が…。
その後、家臣・福永祐炳による巧みな工作で、尹祐は、もともと跡継ぎに決めていた桐壺の子を廃嫡に追いやり、福永氏の娘を正室に迎え入れました。
騒乱と同年、福永氏の娘が生んだ子は男の子でした。この子が後の都於郡城8代目城主・伊東祐充(すけあつ/みつ)です。
福永氏の娘は、祐充の後にも男の子を2人(義祐、祐吉)産みます。彼らも後の日向伊東氏の家督を継ぐこととなりました。
伊東家の家督を継ぐことになる男子を3人も産んだ福永娘は快挙だと思います。その彼女を側室に選んだ尹祐も目利きが良かったのだな、と思いそうになりますが…
うーん(笑)
「綾の乱」は引いて見ると跡継ぎ絡みの騒乱ですが、きっかけは尹祐が福永娘に手を出したことに起因するから複雑です。
尹祐が福永娘と出逢わなければ、順当に桐壺との子が跡を継いで、家老2人も殺されずに済んだかもしれない。
しかしそうなれば、日向伊東氏の最盛期を築いた義祐はこの世に産まれることはない。

運命の悪戯ですね〜。
不謹慎ながら、人間の営みは非常に味わい深いです。
ちなみに、伊東尹祐と福永娘の墓石は同じ墓地内に並んでいます。

ここで、綾の乱で無念の死をとげた2人の紹介。
長倉若狭守祐正(ながくら・わかさのかみ・すけまさ)
彼は騒乱当時の綾城城主でした。綾城は後に伊東四十八城のひとつとなります。長倉氏というのは、伊東氏が日向に下りる際についてきた一族で、古くからの伊東家の重臣です。
垂水但馬守(たるみず・たじまのかみ)
騒乱当時、綾城近くにあった垂水城の城主でした。垂水城は伊東四十八城のリストには載っていないので、綾城の出城だったのでしょうか。
この2人の重臣が殺害された(自刃ではありますが)騒乱で、伊東家には大きな動揺が起こったと伝えられております。
今回訪れた川原田六地蔵塔は、この2人※の供養のため、都於郡城7代目城主・伊東尹祐の重臣であった長倉美作守祐普が、永正16(1519)年に石工一岳に造らせたものです。
(※「長倉若狭守祐正ら」との表記があるので、おそらく垂水但馬守も含まれているのでは?と解釈しております。)
所在地
川原田六地蔵塔は西都市下三財川原田地区の田畑ゾーンに建っています。
地図はこちら。
川原田六地蔵塔の正確な地点は上の通りですが、この地点のアドレスが不明なので(2020年1月10日現在)、とりあえず分かりやすく一番最寄りの「亀塚」交差点からスタートします。
県道24号線と県道320号線が交わる亀塚交差点を、320号線の方へ進みます。
しばらくと進まないうちに、右手に分岐路があり、案内看板を見つけることができます。
ここから畑に挟まれた道をまっすぐに進みます。
そうすると、右奥の畑に、それらしきものが見えてきます。
ございました。
川原田六地蔵塔
高さは2メートルちょっとくらいです。軸石部分は刻まれた字も読めないほどに風化しきっています。500年分の風雨にさらされてなお、力強く歴史を伝えてくれています。
宮崎県内に残っている六地蔵塔のなかでは最古のものだそうです。
六地蔵部分もすっかり風化してしまっておりますが、地蔵様の形はちゃんと見て取れます。
地蔵塔のすぐ脇に石の破片が積み上げられていました。これらは元々、塔の最上部に載っていたものだそうです。
六地蔵憧移転之碑
塔は元からこの位置に建っていたわけではなく、もともと集落の入り口付近にあったのを、農地整備の際に移設したのだそうです。
碑文から、長倉美作守の末裔である長倉寅男さんが塔を現在地に移したことが分かります。
移転之碑の側面には、川原田六地蔵塔に関する説明がびっしりと彫られています。
なんと寛ぎスペースあり!
傍には案内看板も立てられていました。
六地蔵塔の周りは低い植木で囲われており、なんだか温かさを感じます。
この塔は、元は家老を供養するために建てられたものですが、現在では畑の真ん中から地域すべてを見守ってくれているような気がします。
終わりに
今回は、西都市下三財川原田地区にある川原田六地蔵塔を訪ねて参りましたが、500年も昔に建てられた塔を生で見ると圧倒されて、歴史の調査に精が出ました。
川原田六地蔵塔は、「綾の乱」という騒乱で無念の死をとげた長倉若狭守祐正(ら)を供養するために一族が建てた、悲しい歴史を刻んだ塔だったのです。

500年分の風雨を受けてなお力強く立ち続ける姿は、一見する価値が大いにあります…!
ご精読ありがとうございました。
参照:
日向氏の歴史秘話 (http://www.ito-ke.server-shared.com/sukeyasuyosisuke.htm)
日向の国中世の館>綾町の城館 (http://www.cmp-lab.or.jp/~mario/castle/aya.html)
「川原田六地蔵塔」案内看板
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