
西都市で伊東マンショに会えます!(興奮)
伊東マンショとは、歴史の授業で習う「天正遣欧少年使節」…ローマに派遣されたあの4人の少年うちの1人です!
伊東マンショは、1570年頃、日向国都於郡(現:宮崎県西都市)でその一帯を治めていた伊東氏・伊藤義祐の外孫として生まれました。5人兄弟の第3子だったそうです。
幼名を虎千代麿、長じて祐益と言い、弟の虎亀麿(ジュスト)や従弟に当る義益の子義賢(バルトロメオ) 祐勝(ジェロニモ)等と共にバテレンとして洗礼を受け、マンショ(満所)と言った。
引用:大町三男著「都於郡懐古」p.42
マンショもそうだけど、みんなの名前がすごい(笑)
1582(天正10)年、マンショが13歳の折、イエズス会宣教師ヴァリニャーニの勧めにより少年使節4名の正使として長崎港から出帆しました。
一行はゴア、リスボンを経てローマで教皇グレゴリウス13世に謁見。そして出帆から8年5ヶ月ぶりの1590(天正18)年に帰国しました。
ヨーロッパでは各地で大歓迎を受けたそうです(*´ω`*)
帰国後のマンショの消息は詳しくは分かっていないようですが、天草の学院や有馬の神学校に勤め、慶長17年10月21日に43歳で生涯を終えました。若すぎる死だったのですね。
彼ら一行が西欧から持ち帰ったものは、印刷機や地図、時計、天球儀、書籍など、日本文化史上特筆すべき功績でありました。
わたしは実家が西都市なのですが、まさかこんな偉人と同郷だなんて知りませんでした。なんだか誇らしいです(^0_0^)
マンショに会える場所はこちら↓
伊東マンショ像は、伊東氏が拠点としていた都於郡(とのこおり)城跡に設置されています。
都於郡城跡に向けて車を走らせていると、こんな大きな看板が目に入ってきます。
猛アピールしてる(笑)
上に上に進んでいくと次第に道が狭くなり、車1台分しか通れないほどになっていきます。上には駐車場もないので、下の広い駐車場に停めます。徒歩(かち)にて参る!
しばらく歩くとこちらの標識が。
都於郡城は5つの城郭から成るお城で、伊東マンショ像が設置されているのは、それらのうちの本丸跡です。
都於郡城の五城郭を巡った記録もあるので、よろしければご覧ください(*´ω`*)↓

本丸跡へ進みます。
国指定史跡 都於郡(とのこおり)城跡
発見、伊東マンショ!
左手に帽子を提げ、右手を差し出すポーズで立っておられます。
こちらの像は、1996年(平成8)年8月に西都市によって建てられたもののようです。
伊東マンショの功績を讃える碑文です。
他にも、石碑がいくつか建っています。
伊東満所誕生之地
伊東満所顕彰碑
石碑の横に「千九百六十二年〜」と彫ってあるのが見えたので、その年に建てられたのだろうと思います。
伊東満所慰霊碑
周りは原っぱです。草が生い茂っていて歩くとき足元が危ないので、長ズボンに靴下&スニーカーで来られるのがオススメです。
また、お城の跡ということで小高い丘の上なので、大変開放的です。
こちらの写真は、マンショ像の建つ本丸跡からの景色です。堀を挟んで対岸の丘は二ノ丸跡です。これ結構高さがあるんですよ。
そして空がひろい!大自然!晴れていると本当に最高です。

伊東マンショに会いに&広大な空と自然が織りなす素晴らしい景色をみに来ませんか?
最後に、伊東マンショ関連商品で気になるものをいくつか見つけたのでご紹介します。
こちらはなんとコミックス。2019年3月発行の新作です。
伊東氏関連で、よろしければこちらも併せてご覧ください。↓


ご精読ありがとうございました(*^_^*)
参照:
伊東満所像 碑文
笹山晴生ほか. 詳説日本史. 改訂版, 山川出版社, 2016, p.158
大町三男. 都於郡懐古. 杉田書店, 1978, p.42-45
コメント