伊東義益の死を悼み建てられた岩崎稲荷六地蔵塔を訪ねて【下三財神社】

今回は、宮崎県西都市の市指定史跡である岩崎稲荷六地蔵塔(いわさきいなりろくじぞうとう)を訪ねに、西都市大字下三財地区にある下三財神社へ行ってきました。下三財神社は、お稲荷様を祀っているので、岩崎稲荷も称します。

伊東氏ゆかりの建造物が、都於郡城跡付近だけでなく下三財地区にもあるのです。伊東氏は離れた村々にも名を馳せていたのだなぁと想像させられて、しみじみと感慨深いです。

 

下三財神社の場所はこちらです。↓

 

県道24号線から分離する細い坂道を登っていくと、案内が立っていました。

案内標識からそう遠くないところに下三財神社はあります。

到着。

木立に囲まれた「THE 神社」な佇まいです。

 

鳥居に向かって左側に設置してあった何かの箱です。表面に刻まれた文字が風化しており読めません。お賽銭箱ではないようですが、御手洗でしょうか…?

神社を取り囲む柵石のひとつひとつに、(恐らく)神社への寄付者の名前と、その寄付金額と思われる数字が刻まれていました。

例えば、上写真の真ん中の柵石には「金一円五十銭」と刻まれています。一円そこらが寄付金として大いに価値を持つ時代だったのでしょうね。大正時代でしょうか?神社の歴史が感じられます。

 

下三財神社 拝殿

 

拝殿の後ろにある赤い建物が本殿だそうです。

 

拝殿のお賽銭箱の隣に、ひっそりと来訪者名簿が置かれていましたので華麗なるサインをお見舞いしました。そこそこ来訪者はあるようです。西都市はわたしの地元なので嬉しいです(*^_^*)

 

境内

竹林に囲まれています。涼しく空気もきれいで最高です。

 

手水舎(ちょうずや)には水が張ってありました。手水舎の水が涸れている小さな神社もいくつか見たことがありますが、下三財神社はそこそこ来訪者があるからでしょう、定期的に管理されているのだと思います。よかったです。

 

下三財神社 案内看板

 

 

さて、お目当ての岩崎稲荷六地蔵塔は…

ドン!!!こちら!

想像していたより大きくて驚きました。

人間と比較すると六地蔵塔のデカさが分かるかと思います。塔の真横に立っている人間は身長162cmなので、この2倍近く…3メートルはありそうです。

 

岩崎稲荷六地蔵塔 案内看板

永禄12(1569)年岩崎稲荷神社に参籠(こもって祈願)し社殿で頓死した都於郡城第11代城主伊東義益を悼んで、義益の父伊東三位入道義祐が供養のために建立したものである。

参籠(さんろう)
祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること。 [参照:デジタル大辞泉]
頓死(とんし)
突然死ぬこと。急死。 [参照:デジタル大辞泉]

 

神社に籠りっきり中に突然亡くなられた伊東義益さんのために、彼のお父様である義祐さんが建てたのですね。

それが1569年、なんと450年前です。この地蔵塔は5世紀近くここに立ち続けているんです、すごい…((+_+))

 

碑文には「奉為前三州太守桂円法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられている。

三州とは、日向国・大隅国・薩摩国を示し、桂円法光とは義益の戒名を表している。

奉為(おおんため)=御為(おため)
相手を敬って、その利益をいう語。 [参照:デジタル大辞泉]
太守(たいしゅ)
一般に、幕府の高官や領主のこと。江戸時代には、国持大名の俗称。 [参照:デジタル大辞泉]
速証(そくしょう)
仏語。すみやかに仏のさとりを得ること。 [参照:日本国語大辞典]
大覚(だいかく)
悟りを開くこと。大きな悟り。 [参照:デジタル大辞泉]

 

碑文がこちら。

奉為前三州太守桂円法光速証大覚位

意味は「日向・大隅・薩摩、三国の領主である(?)桂円法光(=伊東義益)が、すみやかに大きな悟りを得られた」…といったところでしょうか。若くして突然死してしまった彼の魂が救われそうなメッセージですね。

 

案内には「『三州』に加筆して『日州』にしたと伝えられている」……とありますが、確認するために近づいてみます。

見つけた!本当だ!荒業だ!(笑)

「三」に縦線を2本加えて、まるで「日」かのように見せています。(見えない!見えないぞ!)

「三」の一番下が横長だから、パッと見「且」という漢字にも見えます。おもしろいですね~。

 

伊東氏は結局、三国統一の夢は叶わず島津氏に敗れてしまいます。実際に三国を治めることに成功したのは島津氏なので、この碑文が気に食わず手を加えたのでしょう。

 

後ろには「永禄十二年」とはっきり読み取れます。

これは何語なのでしょう…。

 

境内の他のものも見てみます。

大将軍神社

 

石燈籠一基……と彫ってあります。側面には「文久元年十二月吉日」とありました。西暦だと1861年です。

 

奉寄進……と彫ってあります。側面には「元治??年」と、よく読み取れませんでしたが、元治は西暦1864年~65年までの1年間とちょっとしかないので、この短い期間に寄進されたものでしょう。レアですね。

 

 

終わりに

伊東三位入道義祐についても触れられている興味深い書籍を見つけたのでご紹介します。伊東氏が江戸時代を美濃の山中で隠れ生き延びた歴史が書かれているようです。

一度は地方を治めた領主様であっても、敗れると身をやつして生活せねばならなかったのですね…。伊東氏にさらに興味がわいてきました。

また他の史跡も訪ねながら、伊東氏について少しずつ勉強していこうと思います(`・ω・´)

 

 

ご精読ありがとうございました。

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